背後に迫る旧世界、あるいはヴィランとしての帝国主義
日本語化パッチを公開したゲーム『Anthology of the Killer』について、ごく表面的なものですが、私なりの受け止めを書きました。翻訳したりしたうえでの感想のようなものなので、必ずしも客観的な解説を目指したものではありません。また、ゲーム全体、とりわけ最終作である「Face of the Killer」について、その結末まで触れています。あまりネタバレが体験を損なう類の作品でもないとは思いますが、すべてプレイし終えた方向けに書いています。
こういう文章を書いておいてなんですが、本作の魅力はむしろこういった「政治的」プロットに回収されない過剰さにあるように思います。とはいえ、そういった話をするためにも、まずはこの点を整理しておきたかったので。いつもと文体が違いますが……内容に応じたということで。
背後に迫る旧世界、あるいはヴィランとしての帝国主義
『Anthology of the Killer』というシリーズの要諦は、最終作「Face of the Killer」、とりわけマッピーによる演説において明瞭に示される。マッピーはそこで、「帝国」の復活を求める人々に対して語りかけ、「神話によって聖別された暴力へと戻る」ことを呼びかける。殺人とは、封建的な過去の時代、力が支配した「神秘と気紛れの時代」へと戻るための儀式だった。

思えば、これまで登場してきた殺人鬼たちも、そのような過去へのあこがれを隠さなかった。たとえば第2作「Hands of the Killer」に出てきたズー博士は「男性的かつ活力に満ちた視点から西洋の正典を解釈することにより、急進化した若年有権者を取り戻すこと」を任務としていた。博士は、解釈という領野において「革命前」の時代を取り戻そうとしていたわけだ。キラーシリーズに登場する殺人鬼たちの多くは、旧時代のシステムの復活を望む反動的欲望に突き動かされている(「私は昔からずっと墓の中に住みたいと思っていた」)。
「Face of the Killer」のクライマックスはしかし、そんな反動の饗宴が、市の「オーナー」と結託して「法の時代」を呼ぼうとする警察権力によって扇動・簒奪されるところにある。マッピーは封建的時代を呼び戻すために銃を散布したが、それはあくまでも儀式であるはずだった。だが、「クールな警官」はそこに実弾を込めることで圧倒的暴力を招来、儀式を簒奪し「法の時代」(ファシズム!)への呼び水とする。いかにも「ストイックなリアリスト」のやり口だ。

そうして行政権力の掌握を目論んだ警察は、「政治的っぽいこと」を言う学者を射殺するが、その背後から顔を覗かせた存在こそが「キラー」だった。一連の騒動において常に背後にちらついていた「キラー」(「クライスト的直感に導かれた」機械)は、反動主義者たる殺人鬼らによって称揚されることもあったが、それ自体の駆動因は人知を超えている。いわば暴力そのもの、死そのもののような存在であり、けして手なずけられはしない。卑小な人間的欲求のために「キラー」を利用しようとした殺人鬼たちはみな、反動だろうがファシストだろうがその手にかかって死ぬ。シリーズにおける殺人鬼=帝国主義者たちは、ホラー映画で超自然的怪物や災厄を呼ぶ科学者のようなものだ。自分たちの手に余る存在と戯れ、そのせいで死ぬ。

「Face」の最後、郊外に移ったBBの背後にはやはり殺人鬼が迫ってきている。「歴史の最悪の部分」は決して終わってなどいない(あるいは、喜劇として繰り返される)。「Face of the Killer」冒頭で引用されていた言葉を思い出そう:「走れ、同志よ! 旧き世界は君の背後だ」68年5月にソルボンヌに記されたこのフレーズは、古い世界を置いて走り去れというメッセージだったのかもしれない。だが、逢引の歌が路地裏で殺人鬼に追い詰められる曲に聞こえるように(「To the dark end of the street」)、このスローガンもまた、旧き世界がナイフを持って背後に迫ってきているというホラー的なビジョンへと姿を変えて響き続ける。「終わりを知らないのは帝国ではなく、より強大な想像上の帝国を求める復古運動」なのだから。